日蓮大聖人の御遺命を奉じて 命尽くまで大忠誠を貫かれる
冨士大石寺顕正会会長・浅井昭衞先生が令和五年十月十六日の未明、安詳として御逝去された。御年九十一歳。その御臨終は御金言のままの美事な成仏の妙相であられた。
広布前夜、第六天の魔王の障碍により正系門家の悉くが御遺命に違背する中、浅井先生は身命を賭して強烈なる諫暁を重ねられ、ついに偽戒壇・正本堂を崩壊にいたらしめ、また亡国迫る日本をごらんになり、御遺命の国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を実現せんと、まさに命尽くまで戦い抜かれた。
その尊く偉大な御生涯を貫く大精神は、御本仏・日蓮大聖人に対し奉る大忠誠以外にはない――。
浅井昭衞先生 御略歴
昭和六年十一月三十日、日蓮正宗 妙信講(顕正会の前身)初代講頭・浅井甚兵衞先生を父として東京にご出生。
十六歳のとき、立正安国論を拝読して、日蓮大聖人の仏法こそ国家安泰の唯一の秘術たるを知り、その後、冨士大石寺第二十六世・日寛上人の御筆記にて教学を研鑽。
二十歳で中島円妙院日彰上人(管長代務者、能化、妙光寺住職)の六巻抄講義を受けたことを機に、日彰上人より富士門流の法門や明治以降の宗門の内情等について詳しく伝え聞く。その中、日蓮大聖人の仏法を精魂を傾注して習学し、昭和三十年代には当時の所属寺院・法道院(東京池袋)法華講の青年部長を務められた。
しかし住職に広宣流布の道念なきを見抜いた先生は、苦悩の末に、宗務役僧で宗門最大派閥を率いる住職に対し「広宣流布のために、本気になって大法弘通に立って頂きたい」と直諫。聞き入れぬ住職の無道心を見て、初代講頭先生とともに妙信講の再建をご決意された。
その船出は住職の妨害により困難を極めたが、先生は広宣流布・死身弘法の道を選ばれ、五里霧中のなかにも新生・妙信講を発足。時に昭和三十二年八月三日、先生は二十五歳であられた。
この妙信講の至情は時の貫首上人・第六十五世日淳上人の嘉するところとなり、昭和三十三年一月十五日、本山において、日淳上人より正式に認承状が授与された。
その際「熱原の法華講衆のごとく戦う法華講となって広宣流布に御奉公せよ。まず三千の弘通を成し遂げてみよ」との日淳上人のお励ましに、先生以下居並ぶ幹部は感泣した。またこのとき日淳上人が宗規上の指導教師に定めて下さったお方が、松本日仁尊能化であられた。
新生・妙信講に馳せ参じた同志は三八十名。これより大地を這うような死身弘法が開始された。
昭和三十四年十一月、日淳上人の御遷化の悲報に接せられた先生は、衝撃と悲嘆の中に「日淳上人への御報恩は三千をめざす弘通以外にはない」と折伏弘通に徹せられた。そして発足より六年後の昭和三十八年九月、ついに三千を達成した。
時同じくして宗門の状況は一変した。創価学会・第三代会長に就任した池田大作が、第六十六世・細井日達管長を籠絡して宗門統制を開始。ために妙信講は苛酷な試練と忍従を余儀なくされた。いつ潰されるか知れぬ薄氷を踏むごとくの日々を、先生はただ「忍」の一字に徹し、妙信講の命脈を保たれた。
昭和四十年代、池田大作が政治野心のために「国立戒壇」の御遺命を破壊せんとするを見て、先生は「この大悪を見ながら知りながら、もし黙っていたら、大聖人様に対し奉る最大の不忠になる」と思い定められ、昭和四十五年三月二十五日、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を認め、身を捨てて諫暁に立ち上がられた。
これに対し池田大作は、宗門に「日蓮正宗・責任役員会」で「国立戒壇の否定」を議決させ、次いで時の貫首・細井日達管長に「国立戒壇放棄」の公式決定を宣言させた。
ここに先生は、細井管長の面前で学会代表と論判され、その結果、「今後、正本堂を御遺命の戒壇とは言わぬ」旨の確認書に学会代表が署名、正本堂の誑惑は訂正された。
だが、池田はこの確認書に違反した。
昭和四十六年十一月十五日、先生は悪の元凶たる池田大作に対し「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」を送付された。
これに周章狼狽した池田は昭和四十七年四月二十七日、細井日達管長を盾として「日蓮正宗・責任役員会」で「訓諭の公布」を議決させ、翌二十八日、正本堂を「御遺命の戒壇」とする旨の「訓諭」を発布せしめた。
先生は即日、池田大作に対し公場対決を迫る書状を送付された。池田はこれを逃避し、妙信講の説得に宗務院総監・早瀬日慈と教学部長・阿部信雄を当らせたが、先生の強き諫めの前に、二人とも細井管長に辞表を提出。宗務院は機能停止に陥った。
昭和四十七年七月六日、先生は細井管長と対面。細井管長は訓諭の誤りを認めて先生に訓諭の訂正文を手渡し、宗門機関誌にそれを掲載すると約束された。しかし学会の圧力に屈した細井管長は
「もう私にはどうにもならない。どうか、あなたが学会代表と話し合って解決して下さい」と、全権を先生に委任した。
先生は池田大作に書状で面談を申し入れられ、その文末に「もし御遷座を強行するならば、妙信講は護法のゆえにこれを阻止、ただ一死を賭して在家の本分に殉ずるのみ」と記された。
ここについに学会代表との法論が実現。十月十二日の正本堂落成式を眼前にして、最後の法論が常泉寺において、九月十三日より同二十八日までの間、七回にわたって行われた。第六回の二十七日に至り、ついに屈伏した学会代表は、聖教新聞紙上に誑惑の訂正文を掲載することを応諾。かくて訂正文は昭和四十七年十月三日の聖教新聞第一面に掲載された。正本堂落成式の九日前であった。
昭和四十八年十二月、先生は本部会館(東京都板橋区)を初めて建設された。この落慶御入仏に際しては、松本日仁尊能化が「妙縁寺重宝」との脇書がある「第六十世・日開上人」御書写の御本尊を自ら奉持し、懸け奉って下さった。
先生の諫暁により二度も正本堂の誑惑を訂正しておきながら、池田大作に改悔はなかった。正本堂完工式にキリスト教神父を招き、落成式には「御遺命達成」の言葉を会員に伝えていた。また国立戒壇を否定した政府への「欺瞞回答」も撤回されていなかった。
ここでもし再び諫暁に立てば、今度こそ解散処分が下り「本山登山」も「御本尊下附」も禁止され、講の命脈を保つことは不可能となる。
しかし先生は、講の安穏よりも、大聖人様への忠誠を選ばれ、以前にも増して徹底せる諫暁に立たれた。
昭和四十九年七月二十八日、明治公園に三千人を結集して「立正安国野外集会」を開き、決議文を以て池田大作に「国立戒壇を否定した政府への欺瞞回答を撤回せよ」と迫られた。
昭和四十九年八月十二日、ついに解散処分が下った――。その宣告書には「日蓮正宗管長・細井日達」の名義で、「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付の『訓諭』に対し異議を唱えたゆえ」とあった。
先生は
「この宣告書を手にしたとき、私の胸には『大事な御遺命が破壊されんとしているとき、妙信講が安穏であってはいかにも大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ』との思いがわいた」と。
この宣告書こそ、まさに「忠誠の証」である。
このとき先生は「遥拝勤行で広宣流布の御奉公に立とう」と決意され、直ちに遥拝勤行での死身弘法を展開された。
本山登山を妨害された先生は、それより五十数年にわたり、毎年、年の暮れに大石寺近くまで詣でては、本門戒壇の大御本尊を遥拝されてきた。
解散処分より嵐のような弾圧が妙信講を襲う中、老齢の御身で妙信講を庇護して下さった松本日仁尊能化を、細井日達は「擯斥処分」に処した。
また同年十一月より、先生は本部会館の御本尊を奪取せんとする学会との法廷闘争に立たれた。
昭和五十年八月十二日、先生は三度目の池田大作への公場対決申し入れをされた。しかし池田は黙殺の一手を用いて逃避した。
同年八月二十六日、先生は妙信講・講頭に就任された。時に四十三歳であられた。
昭和五十一年四月二十二日、先生は阿部教学部長(阿部日顕)に公開討論申し入れ書を送付された。阿部教学部長はこれを黙殺した。
昭和五十二年四月、二年六ヶ月におよぶ学会との法廷闘争は、妙信講の全面勝利で終結した。
このころから学会と宗門の間に抗争が始まり、昭和五十四年七月二十二日、この抗争に性心を労した細井日達は、大事の御相承をもなし得ずに急死を遂げた。
昭和五十四年十一月二十六日、先生は、細井日達の次に自己申告で登座した第六十七世・阿部日顕への諫暁を開始された。
昭和五十七年十月九日、先生は日本武道館で一万人の大総会を開催され、死身弘法ついに六万に達したことを機に、妙信講の名称を「顕正会」と改められた。
昭和六十三年八月、先生は池田大作と阿部日顕による御遺命破壊の完結たる「本門寺改称」の陰謀を見抜かれ、総幹部会において、この陰謀粉砕への鉄石のご決意を表明された。
平成二年四月、先生は二十万の死身弘法を背景に、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」との一書を認め、阿部日顕に送付された。
同年七月には二万人の大総会を横浜アリーナで開かれ、「もし池田大作が本門寺改称を強行するならば、そのとき、全顕正会員はこぞって大石寺に総登山すべきである。信心の力を以て、本門寺改称を断固粉砕しよう」と全員に訴えられた。
先生の諫暁に怖畏を生じた阿部日顕は「大本門寺の寺号公称は広宣流布の未来にある」と宣言。この裏切りを眼前にした池田大作は怒り心頭に発し、これより「修羅と悪竜の合戦」そのままの、醜悪そして凄絶なる大抗争が始まった。
平成八年十二月、先生は「日興上人・日目上人の清らかな源流に戻るべし」とのお心から、「日蓮正宗顕正会」の名称を「冨士大石寺顕正会」に改められた。
平成九年七月十六日、先生は五十万の弘通を背景に、「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」の一書を認め、一国諫暁に立たれた。
平成十年、ついに偽戒壇・正本堂が崩壊した――。
先生は、池田大作が「末法万年までの戒壇」などと豪語した正本堂が、阿部日顕の池田への瞋恚の力によって、わずか二十六年で打ち壊わされた凡慮を絶する大現証について
「すべては大聖人様の御意による。大聖人様は、御遺命破壊の大悪を断じて許し給わず。ゆえに顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして学会・宗門を抗争せしめ、ついに正本堂を崩壊せしめ給うたのである」とご断言されている。
平成十二年十一月八日、先生は広布最終段階の本陣として、新本部会館を埼玉県さいたま市に建設された。
平成十六年四月、先生は百万の死身弘法を背景に、「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」を著わし、第二回・一国諫暁に立たれた。
この諫暁で己れの悪事が広く露見し、いたたまれなくなった阿部日顕は、国立戒壇を否定し正本堂を「御遺命の戒壇」とたばかった「二冊の悪書」の幕引きを図った。しかし正本堂崩壊後も、なお国立戒壇否定に執念を燃やす阿部日顕の無慚無愧を見て、先生は平成十七年三月二十五日、阿部日顕に対し顕正会の命運を賭して公開対決を迫られた。阿部日顕はこれを拒否した。
先生は重ねての対決申し入れ書を同年四月二十七日に送付された。しかし阿部日顕は、二度が二度とも悪口雑言だけを並べ立てて完全逃避した。
ここに先生は「阿部日顕の三大謗法に止めを刺して、仏法を守護しなければならぬ」と決意され、平成十七年八月二十八日、「最後に申すべき事」と題した一書を阿部日顕に送付された。その文末に云く
「これが小生の最後の諫めである。もしこの言を卑しんで一分の改悔もなければ、後生の大苦こそまさに恐るべし。顕立正意抄の仰せに云く『我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず』と。以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ謹んで
御本仏日蓮大聖人に言上し、御裁断を仰ぎ奉るのみである」と。
その三月後の平成十七年十一月七日、戒壇の大御本尊の御前にある大扉がいかにしても開かず、阿部日顕は御開扉中止のやむなきに至った。この現証に怖畏を生じた阿部日顕はその翌月、猊座を退いた。「最後に申すべき事」を送付してから四ヶ月後の、平成十七年十二月十五日のことであった。
この戦いの直中、先生は会歌「遺命重し」を作詞され、平成十七年八月二十一日、総幹部会において発表された。
「雪嶺に
身を捨つるとも
大悲の恩
いかで報ずべき
みほとけの
遺命おもし
いのち尽くまで」と。
平成二十三年三月十一日、東日本超巨大地震の発生を見て、先生は「これ日本亡国の先兆、広宣流布の大瑞でなくて何か」と判ぜられ、同時に「2020年代こそ広宣流布の決戦場」と思い定められた。
そして「20年代に突入するまでに、顕正会の全組織を強き信心で打ち固め、二百万の弘通をそれまでに成し遂げたい」と念願され、巨大地震の翌年から三者の各部大会を、さいたまスーパーアリーナで順次開催された。平成二十四年に婦人部大会、二十五年には女子部大会、そして二十六年には男子部大会を開催され、この男子部大会には五万人が結集した。
さらにその翌年から、日本列島を八つのブロックに分けて順次地方大会を開催された。
平成二十七年に南東北大会、二十八年には九州大会と近畿大会、二十九年には中部大会と中国・四国大会、三十年には北関東大会と新潟大会、そして令和元年の北東北大会を以て地方大会のすべてを終え、同時に二百万も達成した。
この間、平成二十六年十一月七日、池田大作はついに「本門戒壇の大御本尊」を六百万学会員に捨てさせ奉った。これまさに第六天の魔王その身に入るの正体を自ら露わしたものである。
この極限の大謗法を見て、先生は全学会員を「入阿鼻獄」から救わんと「学会員を救う特集号」を連々と発刊された。
平成二十七年十月十三日、先生は
「何としても全日本人に、日蓮大聖人の大恩徳と、三大秘法の尊さ・有難さをわからせたい」――ただこのご一念で、二年の歳月をかけて「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」を発刊された。
さらに翌二十八年七月十六日、基礎教学書の広告文を著わされ、ここに「遥拝勤行と広告文」という広布最終段階の信行を確立された。
大聖人御入滅後七百余年、未だに背き続ける全日本人に対し、先生は毎月の総幹部会の講演を特集号として発刊され
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」を徹底して訴えられた。
中でも総理大臣以下全国会議員ならびに全国首長等 日本の中枢約三万数千ヶ所には本部から直接送付し続けられた。ことに安倍政権に対しては、その数々の悪政とともに、御本仏日蓮大聖人を無視して「神の国」を作らんとした謗法を、先生は六十二度にわたって諫められた。これを無視してなお「神国日本」に執念を燃やしていた安倍晋三は、令和四年、ついに銃弾に斃れ、その野望は永遠に潰えた。
一方、「正系門家の御遺命違背こそ亡国の根本原因である」として、先生は学会・宗門の師敵対・極限の大謗法に対し、強烈な諫暁を重ね続けられた。その結果、御遺命破壊の元凶たる池田大作は、平成二十二年五月以降、一切その姿を見せず(学会は令和五年十一月十五日に池田が死亡したとして、荼毘に付した後に公表)、細井日達・阿部日顕の悪臨終も明らかになった。
令和五年四月二十八日、先生は広告文を一新された。そのとき「顕正会の思いはただ一つ。『早く全日本人に、日蓮大聖人の大恩徳を知らしめたい』ただその忠誠心だけで、この広告文は作られた」と述べられた。その広告文の発行部数は現在、九千二百五十万枚に及んでいる。
発足以来六十六年、先生は大聖人様の
「和党ども、二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にも越へよかし」
との広宣流布の大教令と、日興上人の
「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事」
との御遺誡のまま、死罪に等しき解散処分を受けるとも、些かも弛まず死身弘法に徹せられ、そのひたむきな弘通は二百四十五万に達した。その根底にあるのは、大聖人様に対し奉る大忠誠以外にはない。
先生は
「大聖人様の御心に適い奉る恋慕渇仰の遥拝勤行は、やがて必ず日本国に満ち満ちる。そのとき一国の総意のもと、国家意志の表明たる『勅宣並びに御教書』も申し下され、御遺命そのままの『本門戒壇』すなわち国立戒壇が富士山天生原に建立される。そしてその金剛宝座に、ついに『本門戒壇の大御本尊』が御出ましあそばす――。すべては大聖人様の絶大威徳によって成るのである。顕正会員はこの荘厳なる光景を、必ずや熱涙の中に拝見させて頂ける」
「人類絶滅の大戦乱から、日本を、世界を、お救い下さるのは、大慈大悲と絶大威徳まします日蓮大聖人ただ御一人であられる。これを知る我ら門下の弟子一同は、ただ随力弘通に徹して、日蓮大聖人の大恩徳を早く全日本人に教えなければいけない。早く、大聖人様の唯一の御遺命たる国立戒壇建立を実現しなければいけない」
と、日蓮大聖人の御遺命の大事を、重ねて深く弟子に打ち込まれた。
九月度総幹部会において、先生は急速に大闘諍に向かう世界情勢を凝視され、全日本人に対し、日本国の仏法守護の重大使命と、「日本の柱」たる日蓮大聖人の大恩徳を示され、国立戒壇建立の実現を強く促された。そして「亡国の大闘諍が起こるとき、大聖人様は広宣流布を一時にあそばす。何としても大聖人様に応え奉ろう」と師子吼された。
この三週間後の令和五年十月十六日、浅井先生は安詳として御逝去された。御年九十一歳であられた。
浅井城衞理事長指導・臨時幹部会/令和五年十月十六日
本日、隊長・区長・支区部長以上の幹部に急遽、集まって頂きましたが、重大な報告があります。
本日十六日の未明、浅井先生が御逝去されました。御年九十一歳でした。
先生は、数年前から体力の衰えが窺われておりましたが、そのようなところは、私たち弟子や家族にも一切見せず、ただ御遺命成就の一点を見つめ、いささかも休まれる暇もなく、広布の陣頭指揮を執っておられました。
しかし本年九月の総幹部会の翌々日に、俄に体調を崩され、それより二週間ほど治療・静養しておられましたが、本日、臨終を迎えられました。
峻厳きわまる大忠誠で貫かれたその御生涯は、まさしく御遺命守護そして御遺命成就に、命尽くまで、最後の最後まで戦ってこられた、凄まじいものでした。
ことに九月度総幹部会で頂いた、あの五十五分にもおよぶ、御気魄こもる重大ご講演を拝しては、今にして、その思いを深めるものであります。
そして、私自身、何より有難かったことは、本日、眼前にした、浅井先生の、まことに素晴らしい臨終の相でした。
まさに
「臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅綿の如し」
との御金言どおりの成仏の妙相でした。
臨終を迎えるに当って、いささかの苦痛もなく、それより二時間、親族で唱題回向し、さらにその後もお題目を唱えるほどに、色は白く、首も定まらず、手もほどけるほど柔らかく、笑みを湛えるような、なんともいえない柔和な御表情となり、また唇も赤みがさし、まるで今にも起きてきそうな、まことに美事なものでありました。
この現証を眼前にしては、凡夫を仏にして下さる大聖人様の大慈大悲にひれ伏すとともに、浅井先生ご自身が、自らの臨終の証拠を以て、私たち弟子一同に、「御本尊様絶対」の大確信と、御遺命の国立戒壇建立に向けて唯一戦う顕正会の正しさ、そして大聖人様の大慈大悲・絶大威徳により順縁広布は断じて成ることを教えて下さったものと思わずにはいられず、深い悲しみの中にも、ただただ有難さがこみ上げてまいりました。
私たちは、これまで先生に、どれほどの大事を教えて頂いたか計り知れません。
これまで先生から頂いたその報じがたき大恩をかみしめるほどに、私たち弟子一同は、一筋の忠誠を貫かれた浅井先生の御遺命成就にかけるご遺志を継ぎ、その実現に身を捨てて戦い、今こそ、深き師恩を報じてまいらねばなりません。
世間を見れば、「末法濁悪」の様相は日々色濃くなり、世界および日本を取り巻く客観情勢は待ったなしの勢いで激変し、「前代未聞の大闘諍」「他国侵逼」がいよいよ迫りつつあります。
その中、いつも先生は、師敵対・極限の大謗法の正系門家の堕落をごらんになり
「もう顕正会以外に、広宣流布をなす団体はない」
と仰せられ、ただ日本を動かす三百万だけを見つめて、その前進を急いでおられました。
この先生のご遺志を体し、御遺命成就に死力を尽くしていくのが、これまで溢れんばかりの薫陶を受けてきた弟子の務めであります。
本日よりは、私が先生の名代として、顕正会の指揮を執らせて頂きます。
私たち弟子一同の衝撃は、まことに言葉にならぬものでありますが、先生の御逝去という深い悲しみの中に、唯一の御遺命たる広宣流布・国立戒壇建立に、身を捨てて戦われた先生の大忠誠心を、夢寐にも忘れず、本日集いし、隊長・区長・支区部長以上の幹部こそが、大勢の同志を大確信に立たしめ、三百万を早める大なる御奉公をなし、以て、深き師恩に報いてまいろうではありませんか。
浅井先生の御葬儀 厳修さる
御通夜 令和五年十月二十日
告別式 二十一日
冨士大石寺顕正会会長・浅井昭衞先生の御通夜・告別式が、十月二十日と二十一日、本部会館において、隊長・区長・支区部長以上の代表幹部七百余名が参列して、しめやかに執り行われた。
十月十六日、急きょ開かれた臨時幹部会において浅井城衞理事長より「浅井昭衞先生御逝去」との訃報が伝えられると、その衝撃と深い悲しみは全顕正会に波のごとくに広がった。それから御葬儀までの数日間、代表幹部は悲涙に肩を震わせる中にも、ただご報恩の赤誠だけで全国より粛々と馳せ参じた。
御通夜と告別式の最後に御挨拶された浅井理事長は、浅井先生の御金言どおりの美事な成仏の相こそ顕正会の正しさの証明であり、先生のご遺志を継いで、広宣流布・国立戒壇建立を事実となす大事を重ねて述べられた。声涙倶に下る御挨拶に、場内にはすすり泣きの声が満ちた。
御通夜
御通夜は二十日夜に執り行われた。
礼拝室に設えられた祭壇に御柩が安置され、その最上段に導師曼荼羅が奉掲された。中央には先生の御遺影と御位牌が飾られ、その両側を青々とした樒が埋め尽くす。
その荘厳な祭壇と、浅井先生の御温顔を仰いだ幹部は、みな一様に涙を拭う。
午後七時、導師の横田儀礼室委員が着座。そのうしろには浅井理事長および御遺族、さらに理事・総務・本部幹事、そして隊長・区長・支区部長以上の幹部が列座する。
直ちに厳粛なる勤行が開始された。報恩と恋慕の思いが場内に広がる中、寿量品に入って焼香が行われた。
焼香台に進み出る一人ひとりの表情には、先生への報恩感謝の思いがあふれ、その目には涙がにじむ。
勤行を終えたのち、浅井理事長が御挨拶をなされた。(次項に掲載)
浅井先生の成仏の妙相に接せられた理事長のご確信、全会員の悲嘆を慮られる温かなお心にふれた幹部一人ひとりは、深い悲しみの中にも、浅井先生のご遺志を継ぐ使命の重さを噛みしめ、強き決意を堅めた。
告別式
告別式は翌二十一日、午前十時から厳かに執り行われた。通夜から一夜明け、全幹部の面持は凛と引き締まっていた。
横田儀礼室委員の導師により、前夜にも増してご報恩の赤誠みつる勤行が始まり、焼香が行われた。
勤行終了後、浅井理事長が御挨拶。(次々項に掲載)
先生の御金言どおりの美事な御臨終の有難さを重ねて述べられるとともに、御遺命のために命尽くまで戦われたその大忠誠を紅涙の中に偲ばれ、甚重の師恩に報いる御奉公を強く訴えられた。
その後、浅井先生との最後のお別れに当り、御柩の蓋が開けられた。
浅井理事長そして浅井昌子理事が見守る中、参列した隊長・区長・支区部長以上の全員が最後のお別れを申し上げた。
その御相は、色白く、シワは消え、唇は深紅に染まり、頬はふっくらと陶器のように滑らかで、柔和に微笑むその御尊顔は、まさに赤白端正、御金言どおりの美事な成仏の相であった。その妙相を眼前に拝した瞬間、全幹部の胸には「御本尊様絶対」「広宣流布は必ず成る」との歓喜と確信が込み上げ、浅井先生の大聖人様に対し奉る金剛のごとき大忠誠を深く命に刻ませて頂いた。
いよいよ御出棺の時を迎えた。
本部会館正門前の参道の両側に全参列者が立ち並ぶ中、先導の横田儀礼室委員が唱題しながら前へ進み、その後ろに御位牌を持した浅井理事長、さらに御遺影を懐いた浅井昌子理事の葬列が続く。最後に六名の理事等に担われた御柩がゆっくりと霊柩車に運ばれる。
ここで浅井理事長が参列者を前に一言挨拶をされた。すでにすすり泣きの声が漏れている。
午後〇時五二分、「ただ今より、冨士大石寺顕正会会長 浅井昭衞先生、御出棺でございます」との司会の言葉が本部庭園に響くと、静かに霊柩車が動き出した。その瞬間、全員の胸に理屈ぬきの思いが衝き上げ、嗚咽が満ちた。
霊柩車が見えなくなり、十分以上たっても、その場から誰ひとり動こうともせず、ありし日の先生のご温顔を瞼に浮かべては、感涙滂沱の中に、御遺命成就への捨身の決意を幾重にも堅めた。
御遺体は午後二時、戸田火葬場にて荼毘に付された。午後四時四十分、御遺骨は浅井理事長の胸に懐かれて御帰宅。先生のご自宅の御宝前にて納めの勤行が行われた。
浅井城衞理事長ご挨拶・御通夜/令和五年十月二十日
本日は、冨士大石寺顕正会会長・浅井昭衞先生の御通夜に全国よりご参列下さり、深謝いたします。
ただいま隊長・区長・支区部長以上の皆さまとともに、謹んで「通夜の儀」を奉修させて頂きました。
浅井先生の御逝去の報に接した全顕正会員の悲嘆と哀惜は言葉を知らず、その心情に思いを巡らせば、胸が張り裂けんばかりであります。
しかし私自身、浅井先生の素晴らしい成仏の妙相を日々眼前にしては、深い深い悲しみの中にも、凡夫を仏にして下さる大聖人様の大慈大悲を強く感じ、心の奥底から有難さが幾重にも込み上げました。
かかる先生の美事な御臨終こそ、浅井先生の戦いが大聖人様の御意に毫末も違わぬ何よりの証拠であり、これまで先生が打ち込んで下さった御指導のままに戦えば「広宣流布は必ず成る」と、先生が我ら弟子に教えて下さったものと強く確信いたします。
されば、全幹部は「命尽くまで」御遺命実現に戦われた浅井先生のご遺志を継ぎ、先生より数多の薫陶を受けし我ら弟子のこれからの戦いで、広宣流布・国立戒壇建立を事実となし、霊山より温かく見守って下さる浅井先生にお応えしてまいろうではありませんか。
本日はご多忙のところ、万難を排して、ただご報恩の赤誠で全国よりご参列下さり、心から感謝申し上げます。
まことにご苦労さまでした。
浅井城衞理事長ご挨拶・告別式/令和五年十月二十一日
みなさまには、昨日の通夜に引き続き、本日の告別式にご参列頂き、心から感謝いたします。
浅井先生が安詳として御逝去された十六日の夜に急きょ開催した幹部会でもお伝えしましたが、先生の御臨終はまことに素晴らしいものでした。
臨終に当っては些かの苦痛もなく、直ちに親族で二時間ほど唱題回向を申し上げました。
その後、私たち親族が折にふれて、勤行・唱題を重ねるほどに、時間とともに御金言どおりの妙相となっていくことがわかりました。
色は白く、シワはきれいに消え、首や手足も柔らかく、唇も紅をさしたような深紅となり、まさに「赤白端正」でした。
何より微笑んでおられるがごとくの柔和なそのご温顔を拝しては、日々、感嘆の溜息を漏らすばかりで、見とれる余り、時間が経つのも忘れるほどでした。
十八日の納棺の際に先生の御遺体を持たせて頂きましたが、その軽さには驚き、また身体がしなやかに曲がるさまを眼前にしては、御金言には些かのウソ・偽りがないことを大確信し、ただただその有難さに咽び泣きました。
私自身、……無二の師匠と仰ぎ、心からお慕いしてきた先生との……「今生の別れ」ほど……つらく、悲しいものはありませんでした……。
しかし、先生の美事なる臨終の相を眼前にするほどに、かつて味わったことのない悲嘆の中にも、沸々たる思いが衝き上げてきました。
それは、凡夫を仏にして下さる大聖人様の大慈大悲の有難さであり、そして「御本尊様は絶対」「広宣流布は大聖人様のお力で必ず成る」との確信であり、さらには発足から御遺命守護ならびに御遺命成就に向け、ただ一筋の忠誠を貫かれた浅井先生の正しさへの、いっそうの揺るぎない思いであります。
先生ご自身が、その忠誠のお心を謳われた会歌には
「雪嶺に
身を捨つるとも
大悲の恩
いかで報ずべき
みほとけの……
遺命おもし……
いのち尽くまで……」
とあります。
先生は、些かなりとも休まれる暇もなく、最後の最後まで、文字どおり「命尽くまで」御遺命成就に人生のすべてをかけて戦っておられました。
その偉大な御生涯を貫く大精神は「峻厳極まる大忠誠」という言葉でしか表現できません。
片や、常に私たち弟子に対しては、温かく信心をお励まし下さり、あふれんばかりの大歓喜と大確信を打ち込んで下さいました。
もし先生に師事していなければ、愚鈍の私たちが、御本仏の御心のままの信行に励み、御遺命成就の重大な戦いに連なり得ること自体、あり得ぬことであります。
謹んで思うに――
いま先生におかれては、大聖人様に御拝面され、「前代未聞の大闘諍」にいたる世界情勢と、「他国侵逼」せまる日本の様相、その中、三百万へ驀進する顕正会の大前進を奉告なされ、霊山にて、私たちの御奉公をじっと見守って下さっておられるものと確信いたします。
私たち弟子一同は、御遺命成就に命尽くまで戦われた先生のご遺志を継ぎ、「三百万」への戦いを急ぎ、「広宣流布・国立戒壇建立」を事実とすることを以て、甚重の師恩に報いてまいらねばなりません。
されば浅井先生の御逝去という、私たち弟子にとって最も深い悲しみの中に、本日参列した幹部こそが、いよいよさらなる決意を堅め、霊山にまします先生にお応えする、みごとなる御奉公を貫いてまいろうではありませんか。
本日はまことにご苦労さまでした。
ご報恩の勤行


悲涙の焼香


最後のお別れ 悲嘆は感涙に


御葬送、そして出棺――

浅井昭衞先生 追悼大法会 厳修
令和五年十月二十八日
冨士大石寺顕正会会長・浅井昭衞先生の追悼大法会が、十月二十八日、総班長・支隊長以上の代表幹部三千数百名が全国より馳せ参じ、本部会館および第一・第二・第三青年会館において厳粛に奉修された。
浅井先生が十月十六日に安詳として御逝去されてより、全顕正会員が深い悲しみに包まれる中、二十一日の告別式において、御金言に寸分も違わぬ先生の美事な成仏の妙相を拝見した幹部の詠嘆は、瞬く間に全顕正会に伝わった。
かくて、一人ひとりの悲嘆は感涙と確信に変わり、浅井先生の弟子になり得た有難さと報恩の赤誠みつる中、追悼大法会を迎えた。
式は、浅井理事長の導師によって執り行われた。
最後のご挨拶において浅井理事長は、命尽くまで大忠誠を貫かれた浅井先生の尊き御生涯を偲ばれたのち、報恩抄の一節を引かれ
「私たちが御遺命成就に戦うその功徳のすべては浅井先生の御身に集まること疑いなく、それこそが最大の御報恩であると心するものである」と、師恩報謝の思いを述べられた。
この日、早朝の雷雨は一変して穏やかな秋晴れになる中、開式の数時間も前から総班長・支隊長以上の幹部が、黒服に威儀を正して粛々と本部会館に参集。その表情には先生への深い報恩の念が表われていた。
本部会館礼拝室の御宝前には浅井先生の御遺骨が安置され、その前後に御遺影と御位牌、両脇に青々とした樒が設えられた。
勤行・焼香
午前十時、真心の唱題が全館をゆるがす中、浅井城衞理事長が恭しく出仕、直ちに勤行が開始された。
寿量品に入り、はじめに浅井理事長が焼香をされ、そのあとに御遺族、理事・総務・本部幹事、そして隊長・区長・支区部長以上の幹部が焼香を行なった。
弔辞
「欲重宣此義・而説偈言」でリンが打たれ、弔辞に移る。行成公一郎副理事長、湯浅悦子理事、高屋敷久美子理事、坪田敏理事の四人が相次いで立つ。浅井先生への深き哀惜の念と報じ難き大恩をかみしめつつ、熱涙の中に報謝の思いを述べるその至誠は全参列者の胸を打ち、そこここですすり泣きの声が漏れた。
理事長挨拶
最後に浅井理事長が、十五分にわたりご挨拶をされた。(次項に掲載)
理事長は、大聖人様に対し奉る大忠誠だけで貫かれた先生の、六十有余年におよぶ尊く偉大な御生涯を深く偲ばれ
「先生の大河のごとき戦いを具に拝見するに、そこには私心などは微塵もなく、また先生は誰に頼ることも相談することも励まされることもなく、ただお一人で大聖人様の御意を拝し奉られ、その御命令に殉ぜんと……一筋に峻厳極まる大忠誠を貫き通され、御遺命成就に命尽くまで戦われたのである」と。
そして眼前に拝見した美事なる御臨終について
「先生は御臨終にあたって一切の苦痛もなく、色白く、身体も軟らかで、しかも軽く、なにより時間を経るごとに唇が紅をさしたような深紅となり、いまにも起きてきそうな柔和なその御表情には、理屈ぬきの歓喜と確信が衝き上げた。
この誰人も否定できない『眼前の証拠』を拝見した瞬間、この上ない哀惜の念は、御本尊様の有難さと御遺命成就への熱鉄の決意に変わり、先生が私たち弟子に自らの臨終の証拠を以て揺るぎない大確信を与えて下さったものと感涙がこぼれた」と。
最後に報恩抄の
「されば花は根にかへり、真味は土にとゞまる。此の功徳は、故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」
との御金言を引かれ
「私たちが御遺命成就に戦うその功徳のすべては、浅井先生の御身に集まること疑いなく、それこそが最大の御報恩と心するものである」
と、紅涙の中に述べられた。
先生のご遺志を一身に承けられた理事長の、その衷心からの一語一語は、全員の命に深く刻まれ、満場の嗚咽の中、理事長のもと全幹部が一結した。
会歌斉唱
ここで全参列者が総起立し、会歌「遺命重し」を斉唱した。
「雪嶺に
身を捨つるとも
大悲の恩
いかで報ずべき
みほとけの
遺命おもし
いのち尽くまで」と。
十月十六日以降、全員が日々に深めた報恩と堅き誓いは、滂沱たる涙とともに荘重にして厳粛な響きとなり、霊山の浅井先生の御許に届けられた。
最後に理事長の唱導によりお題目を三唱。大拍手の中に理事長は退出された。
引き続き、隊長・区長・支区部長以外の参列者の焼香が行われた。
かくて午後〇時二十六分、浅井昭衞先生 追悼大法会の一切は終了した。
一般焼香
この日の午後一時から二十九日、三十日の三日間にわたり第一・第二・第三青年会館で一般焼香が行われた。
大恩ある浅井先生に哀悼の誠を捧げんと、全国から数万人が粛々と参列。本部会館に通ずる道という道には長蛇の列ができ、本部周辺は粛然として清浄な空気に包まれた。
報せを伝え聞いた多くの未活動者、また入信・入会まもない人々も涙の中に焼香を行なった。中には車椅子やストレッチャーを利用するなど病躯を押しての来場も多く見受けられた。
その一心に先生の御霊前に焼香・合掌し、身命を惜しまぬ御奉公を涙の中に決意する姿こそ、まさに先生が築き上げられた仏弟子の大集団・冨士大石寺顕正会の異体同心を象徴するものであった。
この追悼大法会こそ、全顕正会員が浅井理事長の下で、大聖人様そして浅井先生に御遺命成就を誓い奉る、まさに歴史的な一大儀式であった。
浅井昭衞先生追悼大法会・浅井理事長ご挨拶/令和五年十月二十八日
本日は、冨士大石寺顕正会会長・浅井昭衞先生の御恩徳を報ずるため、全国より総班長・支隊長以上の代表幹部三千数百名が相集い、ここ本部会館において、追悼の大法会を謹んで奉修させて頂きました。
大忠誠だけで貫かれた御生涯
先日、発刊された顕正新聞「浅井昭衞先生追悼号」に先生の御略歴が掲載されておりますが、大聖人様への大忠誠だけで貫かれた、あまりにも尊く偉大なその御生涯を拝しては、いったい誰人が真似などできようかと、ただただ畏敬の念が込み上げてまいります。
広布前夜に至り、第六天の魔王その身に入りし池田大作が「時の貫首」を籠絡し、正系門家から御本仏一期の御遺命を破壊せんとする未曽有の大悪が起きたとき、かかる先生が正系門家におられ、唯お一人、一身を賭して御遺命を死守されたご雄姿を拝見するほどに、先生こそ大聖人様が召し出だされた御方と思わずにはいられません。
妙信講発足
妙信講発足以前に所属していた末寺住職の道念なき姿に意を決せられ、昭和三十二年、当時二十五歳の先生は前途多難をご覚悟のうえで、濁れる安易を捨てて妙信講を発足し、広宣流布の道を歩みだされました。
御遺命守護
そして第六天の魔王その身に入る池田大作が政治野心のために国立戒壇を否定、偽戒壇・正本堂の大誑惑を構え、正系門家からまさに御遺命が消滅せんとしたとき、先生は身命を賭して敢然と諫暁に立たれたのであります。
昭和四十五年より開始された、その連々たる諫暁は、戦時中の軍部のごとく驕った八百万学会を大きく揺さぶり、絶対権威の時の貫首の「訓諭」までも訂正せしめたのでした。
さらに正本堂落成直前の学会首脳との七回にわたる激烈極まる法論において、先生はたったお一人で学会を屈伏、聖教新聞紙上で誑惑を訂正せしめ、正本堂落成時の御遺命達成の宣言をギリギリのところで阻止されたのであります。
しかし、悪事露見を恐れた池田大作は細井日達管長をして顕正会を解散処分に付せしめましたが、このとき、その宣告書を手にされた先生は
「大事な御遺命が破壊されんとしているとき、妙信講が安穏であってはいかにも大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ。御遺命を守るに『懈怠の弟子、ゆるき行者』とのお叱りだけは免れる」
と思され
「御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」
の大精神で、広布最終段階の信行にして「忠誠の証」たる遥拝勤行を確立され、御本仏の仏勅に応え奉らんと死身弘法を展開されました。
本門寺改称の陰謀を粉砕
その後、誑惑の完結たる「本門寺改称」の陰謀に気づかれた先生は、それを粉砕する決死のご決意を表明され、平成二年四月には「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題した諫暁書を認められ、同年七月には横浜アリーナ大総会で本門寺改称陰謀粉砕の捨身のご覚悟を師子吼されました。
「まさに是くの如く受持し擁護すべし」とて、有徳王・覚徳比丘の故事にならい、身を捨てて陰謀粉砕の御奉公に立たれた先生の捨身不退のご決意は阿部日顕の肺腑を抉り、ついに本門寺改称の陰謀は潰え去ったのでした。
正本堂崩壊
それを機に学会・宗門の間に「修羅と悪竜の合戦」そのままの凄絶なる大抗争が起こり、執拗なまでにスキャンダルを暴かれた阿部日顕の池田大作に対する瞋恚により正本堂は撤去され、ついに地上からその醜い姿を消し去ったのであります。
まさに、大聖人様が先生をして立たしめ、諸天をして正本堂を打ち壊わし給うた凡慮を絶する不思議と、拝するのほかはありません。
大扉開かず
しかし、偽戒壇・正本堂なき後も御遺命の国立戒壇を異常なまでに怨嫉する阿部日顕に対し、先生は重ねて公開対決を申し入れられ、完全逃避した阿部日顕に「最後に申すべき事」で止どめを刺されました。
その三月後に起きた「大扉開かず」の大現証に畏怖を感じた阿部日顕は、その後、自ら退座したのであります。
広布の決戦場
そして正系門家の腐敗堕落により日本の亡国が迫る中、先生は「20年代こそ広布の決戦場」と思い定められ、三者各部の大会を皮切りに、全国の地方大会を順次開催され、満を持してその準備を整えられました。
かくて20年代に突入して
「日本国の大疫病と、大飢渇と、どしうちと、他国より責めらるゝは総罰なり」
とて、一国に「総罰」がいよいよ現われる中、先生は日本を動かす三百万を急ぐ大前進を展開され、その死身弘法は実に二百四十五万に達しました。
峻厳極まる大忠誠
まさに先生の大河のごとき戦いを具に拝見するに、そこには私心などは微塵もなく、また先生は誰に頼ることも、相談することも、励まされることもなく、ただお一人で大聖人様の御意を拝し奉られ、その御命令に殉ぜんと、いかなる大魔障をも降し、学会・宗門の悪辣きわまる謀略も、公権力による不当な弾圧も撥ねのけ、一筋に峻厳きわまる大忠誠を貫き通され、御遺命成就に命尽くまで戦われたのであります。
「命尽くるとも」
かつて先生は日目上人が最後の天奏に赴かれた際のご心境を
「もしこれをなさねば大聖人様に申しわけない。たとえ途上、命尽くることがあろうとも、そのときは弟子に申状を奏上せしめん」
と拝察されましたが、これこそ先生のお心そのものと伏して拝するものであります。
毎年の暮れに
昭和四十年代半ばから登山を妨害されて今に五十有余年、一年の御奉公を終えられた先生は、必ず年の暮れに大石寺のそば近くに赴かれ、戒壇の大御本尊を遥拝しておられました。
私も三十年以上その御供をさせて頂きましたが、寒風吹きすさぶ中、防寒着も召されず凍てつく大地に坐して戒壇の大御本尊を遥拝されるそのお姿には、孤高の忠誠を痛いほど感じ、涙が滴るばかりでした。
御金言どおりの成仏の妙相
先生の御逝去は弟子たる私たちにとって言葉にならぬほどの悲嘆でありますが、その中、何より有難かったことは、先生の御金言どおりのまことに素晴らしき成仏の妙相でした。
先生は御臨終に当って一切の苦痛もなく、色白く、身体も柔らかで、しかも軽く、何より時間を経るごとに唇が紅をさしたような深紅になり、いまにも起きてきそうな柔和なそのご表情には、理屈ぬきの歓喜と確信が衝き上げてきました。
この誰人も否定できない「眼前の証拠」を拝見した瞬間、この上ない哀惜の念は、御本尊様の有難さと御遺命成就への熱鉄の決意に変わり、先生が私たち弟子に自らの臨終の証拠を以て揺るぎない大確信を与えて下さったものと、感涙がこぼれました。
私たちの御奉公の功徳が先生の御身に
広布の一大生命体
いま私は、先生が手塩にかけて築き上げられた顕正会の並々ならぬ強靭さを痛切に感じております。
深い悲しみの中にも、幹部から未活動者にいたる全顕正会員が先生のご遺志を継ぎ、大確信で奮い立つ姿をみては、すべては先生が立たしめて下さったのだと、ひれ伏す思いであります。
先生は、弘安二年の熱原の大法難のとき、上野殿が賜った異体同心事を引かれ
「顕正会はまもなく三百万になり、一千万になり、一億にもなる。しかし全員が、ただ御一人の大聖人様に南無し奉るゆえに、一つの生命体である。これが異体同心である」
と指導下さいました。
大聖人様への大忠誠を貫かれた先生の金剛のごとき絶対信、やみがたい広布の大道心に異体同心した顕正会こそ、広宣流布の一大生命体であり、かかる先生のご遺志が力強く脈打つ地涌の菩薩の大集団が、亡国せまるこの日本に、濁乱きわまる正系門家に存在していることこそ、大聖人様の厳たる御意志と拝するものであります。
先生から授けて頂いたすべてを力に
これまで私たちは、先生から仏法・世法ともにあらゆることを教えて頂きました。
御本仏・日蓮大聖人の御遺命の大事、大聖人様の絶大威徳と大慈大悲、大聖人様の御意に適う信行、亡国の根本原因、日寛上人の御指南をもとにした御書の深意、人生の目的が成仏にあること、仏勅を承けて立つ顕正会の正しさと重大使命、あらゆる問題について仏法の眼を以て判じられる卓抜のご見識――
そして何より、先生の命尽くまでの激闘に伴う数々の不思議を通して、学会・宗門のごとき「顛倒の衆生」には「雖近而不見」で逆立ちしてもわからない、御本仏の「常住此説法」すなわち常に此に住して法を説かれる御姿を、如実に拝させて頂きました。
あとは私たち弟子が、先生から授けて頂いたすべてを力に換え、一結して立つとき、必ずや御遺命成就の重大な御奉公をなし得るものと大確信いたします。
「花は根にかへり…」
かつて先生は報恩抄の
「されば花は根にかへり、真味は土にとゞまる。此の功徳は、故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」
との一節を引かれ
「いま私たちは、広布の前夜に生まれて、国立戒壇の御遺命を守り奉ってその達成に体をぶつけ御奉公申し上げている。この功徳こそ、亡き父母に、先祖に、回わり向けられるのである」
と指導下さいました。
これを以て思うに、私たちが……御遺命成就に戦うその功徳のすべては浅井先生の御身に集まること疑いなく、それこそが最大のご報恩と心いたします。
御遺命成就に死力を尽くさん
されば、私たち弟子一同は、「前代未聞の大闘諍」「他国侵逼」迫る世相を常に凝視してその前進を急がれた先生のご遺志を継ぎ、三百万そして御遺命成就に死力を尽くし、霊山から温かくお見守り下さる浅井先生にお応えする戦いをなすのみであります。
まずは、その誓いの偽りなき証を、この最終法戦に誓願三万を遥かに突破する空前の大折伏に顕わし、以て先生へのご報恩とさせて頂こうではありませんか。
最後に、顕正会の幹部一同には、浅井先生のご恩を報ぜんと、みなが赤誠を尽くして下さったこと、心から感謝いたします。
以上を以て、ご挨拶とさせて頂きます。(大拍手)
紅涙の勤行





焼香



弔辞


会歌「遺命重し」斉唱


滂沱たる涙の誓い


日本全国から粛々と焼香に――







